合掌

雑記

1934年9月1日、そして2016年12月19日。

この2つの日を私はいつまで覚えていられるでしょうか。ふと思うことがあります。

そもそも9月1日の母の誕生日を、どれだけ祝ったことがあるのか、かなり怪しいです。もともと田舎の昭和の時代には、誕生日を祝う習慣はそんなになかったように思います。

それでも、2016年12月19日以降、今まで、母の記憶が薄まるということは全くありません。もちろん成長するなんてこともない。ただ静かに私の心の中に一緒に生きているのを感じるだけ。正直に言えば、時折ということですが。

三人男兄弟の真ん中で、真ん中の宿命なのか高校生になれば早く家を飛び出したくてしかたがなかった。念願叶い大学生の下宿生活を始めて以降、定期的に帰りはしても、それでも絶対的に母と一緒の時間は短かった、と思います。それだけ「濃密」だったのかもしれません。

男三人兄弟がいかに家庭内に不愛想な空気を固めてきたか、いつ思っても、女性一人で頑張ってきた母に申し訳ない気持ちで一杯です。たぶん辛い日々もあったのでしょう。そんなことはもうどうでもいい。大事なのはいつでも私たち三人に「分け隔てなく」温かく接してくれたことです。自分が親の立場になって以降、ここはかなり母を意識してきたのを何となく感じます。

さあ、そんな母も齢を経るにつれ、腰を悪くしていたのが体全体を弱くしてしまったようで、よく動けなくなってしまいました。逆に父のほうが元気で、母の面倒を一人で見ながら、二人仲良く家で暮らしていました。しかし更なる歳は父の体も蝕み、父ももうどうしようもなくなり病院で過ごすようになると、さぞかし無念であったのでしょうが、母を家の近くの養護施設に入れることに同意することになりました。この頃はまだ物理的な距離は離れていても時折見舞いに行き、普通に会話も成り立っていたのです。

時間の経過というものは、この段階になるとすべてが残酷なものですね。「悪化」しか先に現れるものはない。そんな、まあ平穏ともいえる時間を我々から奪い、先に父が亡くなることになります。

自分の親を初めて亡くす体験です。いろんなことがあって、間違いなく人生最大の混乱の何日間でした。その混乱の一つは、「母が父の死をどれだけ受け止めたのか、少なくとも表現しなかった」ことです。病気に原因を持っていくことは簡単です。しかしそれを私は神の摂理と思わざるを得ません。一つには、先に悪化しかない人間に、精神的な巨大苦痛を与えて何になりますか。二つには「フェイドアウト」

少なくとも今は私の心の中で一緒にいてくれています。その時間を大切にしたいと思います。

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